ジャパンネット バンク 太平洋戦争
太平洋戦争とは?
この項目では第二次世界大戦の太平洋戦争について記述しています。チリ共和国とボリビア共和国、ペルー共和国との間の太平洋戦争については太平洋戦争 (南米)をご覧ください。
なお、大東亜戦争という呼称については、1941年12月12日の閣議決定により支那事変をも含むと定義されており、正式な呼称としては太平洋戦争に代替しうるものではない。また、日本の現行法令では条文中に太平洋戦争という呼称が使用されており、定義はされていないものの、日本政府によって太平洋戦争が正式な呼称として認められている(詳細は下記「呼称について」を参照)。
1937年に勃発した日中戦争において、日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。
アメリカ、イギリスは日本に対して中国からの撤兵を求めた。アメリカは戦争継続に必要な石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとり、イギリスも仏印進駐をきっかけに経済制裁をはじめた。これらを自国に対する挑戦であると反発した日本はドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。
1941年4月から日本の近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍が南部仏印へ侵出すると、アメリカは在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発動した。
9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。だが10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職する。後を継いだ東条英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。
11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。
11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた[1]。ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東条英機内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。
書記官室の寺崎英成書記官(敗戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。[2]。すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略であったという一部でいわれる説の根拠となっている。