ジャパネット 高田 ヴィンス・カーター
ヴィンスとは?
初めてダンクをしたのは中学1年生の時で、身長は既に173cmに達していた。高校でフロリダ州のミスターバスケットボールに選ばれたカーターは、名門ノースカロライナ大学に進学。大学時代はアントワン・ジェイミソンらとプレイし、3年生の時にはオールACCファーストチーム、オールアメリカセカンドチームに選出された。ファイナルフォー敗退後、アーリーエントリーを宣言しNBA入りする。
1998年のNBAドラフトでゴールデンステート・ウォリアーズが全体5位として獲得するが、即座にジェイミソンと交換でトロント・ラプターズにトレードされる。この年から活躍し、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を獲得、オールルーキー1STチームに選出された。
2000年のNBAオールスターゲームにファン投票で最多投票を獲得し先発選手として出場した。また、スラムダンクコンテストにも出場し、試技5回中3回で満点を記録。肘までリムに突っ込む「エルボーダンク」やアリウープでの「レッグスルー」、「逆回転360ウィンドミル」等の驚異的なパフォーマンスを披露し優勝。ルーキーイヤー以外のオールスターゲームには全て出場(ルーキーイヤーはロックアウトによりオールスターゲーム自体が開催されなかった)。その内の5回はファン投票の獲得数で決まる先発選手として出場した。2000年・2001年・2002年・2004年には、最多得票で選出されている。
2000年のシドニーオリンピックではトム・ググリオッタの代役で、アメリカ代表チームドリームチームの一員として出場、大活躍し金メダル獲得。シドニーオリンピックの予選の対フランス戦でフランス代表チームのセンターで218センチあるフレデリック・ワイスの頭上を跳び箱の様にして飛び越え、ダンクシュートを決めたのは有名である。
2001-2002シーズン終盤、ティム・ダンカンにファウルされた時に足を故障。すぐに回復するものと思われたが、想像以上に故障の度合いが酷く、長期の欠場。この間にチームは泥沼の16連敗を喫する。カーターは故障の癒えないまま連敗を止めるために一時復帰。なんとか連敗を止めるも故障の状態が思わしくないために手術を決意。残りの全試合を欠場することとなった。しかし、カーターの欠場が決まった直後からチームは奇跡の14連勝を挙げプレーオフに出場。この事件をきっかけにファンやメディアの間でカーター不要説が囁かれ始める。続く2002-2003シーズンも故障は完全に癒えておらず43試合のみの出場とシーズンの大半を欠場。このころから、カーターの評価、存在感、チーム内での重要度が失われていった。
2003-2004に復活。73試合に出場し、平均得点も22.5とリーグ8位の好成績を残すもプレーオフには出場できなかった。カーター自身もチームの改革を望んでいた所、カーターとラプターズ首脳陣との間で「チームの新しい首脳陣の人事は君にも相談する」との約束が交わされる。しかし実際には何の相談も無く人事は決定(カーターはジュリアス・アービングのフロント入りを希望していたが叶えられなかった)。これに腹を立てたカーターはトレードを要求。そのままシーズンが開幕するも明らかにモチベーションの低いプレーを連発した。
ラプターズもカーターのモチベーション低下による散漫なプレイに仕方なくトレード要求を承認。2004年12月17日ニュージャージー・ネッツにアーロン・ウィリアムス、エリック・ウィリアムス、アロンゾ・モーニングとの交換で初の移籍を果たす。ちなみにこのトレードはラプターズにとって全く旨みの無いトレードで、近年最低のトレードとも評される。
移籍先のネッツは当時リーグ最高峰のポイントガードであったジェイソン・キッドが在籍していたチームであり、カーターとキッドのバックコートコンビは大いに注目を集めた一方で、カーターとプレイスタイルで被るリチャード・ジェファーソンとの共存については疑問視されていた。しかしジェファーソンはカーター移籍直後に故障。このシーズンで3人揃ってコートに立つことはなく問題は先送りになったが、新天地で心機一転したカーターは移籍後の平均得点ではリーグ2位に値する27.6を記録。(シーズン通算は24.3)故障者が多かったチームを滑り込みでプレーオフに導いた。