ジャパネット 高田 古舘伊知郎
伊知郎とは?
1980年から『ワールドプロレスリング』の実況アナとして山本小鉄と名コンビを組む。「おーーーーーっと!」「燃える闘魂」「掟破りの逆サソリ」「名勝負数え唄」「人間山脈」「風車の理論」「エリート・雑草逆転劇」などの独特な名調子・比喩表現は「過激実況」と呼ばれ絶大な人気を博し、アントニオ猪木全盛期、新日本プロレスの黄金期を支えてきた。特に、「おーーーーーっと!」の名調子は、プロレスファン以外に対しても古舘をメジャーに押し上げたきっかけとなったと言える。これは古舘独特のフレーズであり、ものまねの対象になるなど、様々なパロディも散見された。なお、フリーになるかならないかの微妙な頃に、フジテレビの『オレたちひょうきん族』の1コーナーである「ひょうきんプロレス」に覆面アナウンサー「宮田テル・アビブ」(宮田輝のもじり)として出演したこともある(「奮い立ち伊知郎」と名乗ったこともある)。
プロレスファン以外の視聴者にも古舘の名が一躍認知されるようになった端緒は、1985年の「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)の司会抜擢であった。当時民放各局に乱立していた歌番組の中でも抜きん出た格上の番組であり、そこにフリー・独立から1年しか経たない、司会者としてのキャリアが浅かった古舘が抜擢されたことについて、当時の視聴者から危惧の声が上がっていたようだが、その当初の視聴者の反応も、当時の同番組の看板司会者であった芳村真理の強い後盾もあったためか聞かれなくなり、司会者としてのキャリアを上げる大きな契機となった。若手司会者ながらも必死に自己の司会スタイルを浸透させようとする古舘の自己研鑽ぶりを芳村真理は高く評価し、「この人なら後を任せられる」という思いから、古舘への番組禅譲という形で1988年に芳村は夜ヒットの司会を勇退した。古舘自身も独立早々の苦境の時に最初にフリーの司会者として使ってもらったことや、自己の司会術を高く評価してもらった、という恩義から、現在も、同番組、そして芳村真理に対しての強い敬意の念を抱いているようである(「SmaSTATION」に出演した際にこの点については述べている)。ちなみに古舘の結婚式の仲人は芳村夫妻が務めており、現在も芳村・古舘は家族ぐるみの親交を続けている。
2000年の大晦日に路上で年越し「トーキングブルース」を行いカウントダウンを行わないまま喋り続け、21世紀に入って5分ほど過ぎたところで観客に知らせた。世紀を跨いで喋り続けた男となる。
2006年7月3日の日本テレビ「みのもんたの“さしのみ”」にゲスト出演。「おしゃれカンケイ」終了以来、1年3か月ぶりに日本テレビ系列に出演となった。この日のトークでみのもんたが「報道ステーションに一度出てみたい」という希望に対し、古舘が「良ければ是非」と快諾する。このO・Aから4日後の同年7月7日にみのが報ステ出演が実現した。
「古館伊知郎」との誤記がよくあるが、正しくは「古舘伊知郎」(より正しくは、前述の通り館ではなく、偏が舎で旁が官)である。ただし、新聞のテレビ欄などは字体の規制があるため前者の表記をする。また、読みは「ふるたて」でも「ふるだち」でもない。
プロレス実況アナ故に、レスラーに襲われた時もあり、はぐれ国際軍団のアニマル浜口に広島県立体育館において「お前はいつも調子に乗った実況をしやがって」と訳も無く殴られる(1982年。この事件を古舘は患部の治療にサロンパスを使用した事から後に”涙のサロンパス事件”と命名している。時を経て、『報道ステーション』で浜口の娘・浜口京子の活躍が取り上げられた際、「僕お父さんと一緒に仕事していたんですよ」と懐かしそうに語っていたことから、後に和解したか、殴られたこと自体がアングルだったと考えられる)。また、或る日の試合前の外人サイドの控え室で取材中に「お前はテレビの取材か?」と歩み寄ったデビッド・シュルツに後頭部を殴打され、その日の実況を包帯を頭に巻いて生放送を行う(1985年)。
1984年2月11日、前年の衝撃の引退からの復帰を宣言していた初代タイガーマスクが興したタイガージムのジム開きパーティに、「年来の友情」から、アナウンサーの立場を離れた「個人の資格」で参加し、司会を務めた。ザ・タイガーへの改名や、山崎一夫の新日本プロレス離脱&インストラクター就任などがその場で発表されたのだが、当時UWFの旗揚げの噂が流れていただけに、古舘の出席は物議を醸すかと思われたが、テレ朝でも新日本も問題視しなかった。これは、テレ朝退社が既に公然の事実だったのと、「古舘は新日本及び猪木に対して不利益な事はしないだろう」という信頼感による部分が大きかった。