ジャパネット 高田 アントニオ猪木
猪木とは?
今日の日本のプロレス・格闘技の歴史を語る上で(猪木自身は、プロレスと格闘技を区別することを嫌っているが)、力道山、ジャイアント馬場と並んで欠く事の出来ない存在であり、多くの世界のプロレスラー・格闘家に影響を与えている存在である。1995年には北朝鮮で、「スポーツと平和の祭典」を開催している。北朝鮮政府によると、この大会では2日間で38万人の観客を動員した。
横浜市鶴見の石炭問屋を営む裕福な一家に生まれる。横浜市鶴見区生麦町1687番地(現在の鶴見区岸谷3丁目)で育つ。猪木5歳の時に父親は死去。第二次世界大戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産し、14歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。
ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。他の農場の脱走した者たちの中には牧場主に射殺された者もいたという。あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。猪木の精神力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。
ブラジルへ移住してからは砲丸投げなどの陸上競技で活躍し、その身体能力をいかんなく発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で辞めたらしい。その後現地の砲丸投げ大会に出場、優勝した際、たまたまブラジル遠征に来ていた力道山の目に留まる。
1960年4月11日に力道山から直接スカウトされた。これが猪木の人生を大きく変えた運命的な出会いとなる。この時、力道山に「日本に行くぞ」言われそのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団。プロレス界入りした。猪木はこの出会いを振り返り、「本当に自分は運がいい」と今でも語っている。力道山から掛けられた最初の言葉が「オイ、裸になれ」だった事は有名。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。
同年9月30日、東京の台東体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗北)。デビューはジャイアント馬場と同日である。なお、リングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単にブラジル帰りを強調するため洋風な名前にされたということらしい(本人曰く「アントニオという名前は日本で鈴木や佐藤という名前が多いようにブラジルではありふれた名前」とのことであるが、実は苗字ではなくファーストネームであり日本でいえばひろしやたけし)。まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。
また力道山は猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南米での興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後である。
その後は新人レスラー兼力道山の付き人となったものの、力道山は赤坂のナイトクラブでトラブルを起こした際に刺された傷が元で急逝した。その後の1964年に、アメリカへ武者修行へ赴く(この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった『リトル・トーキョー・トム』)。地方巡業を中心に活躍して2年後に帰国。なおアメリカ時代にアメリカ人女性と結婚している。